帰り道御殿ヶ浜の本多神社に立ち寄った。境内では保育園児が遊んでいて小生が写真を撮っていると、例によって「何してんのー?」と近寄ってくる。この位の子は警戒心というのが殆ど無い。彼等はまず手にした獲物(木の実だの蝉の抜け殻だの)を掌にのせて見せてくれるので小生は須く「これはすごいすごい」と褒めちぎることにしている。
本多神社は膳所藩主を二期にわたってつとめた譜代の本多氏をまつるお宮。以前は境内に宝物館があったが、いまは市の博物館に収まっているようだ。その宝物館があった建物の隣に幕末膳所がうんだ洋学者黒田麹廬(くろだきくろ 1827-1892)の顕彰碑が建っている。建碑は昭和六十二年、新しいといえるがそれでももう40年経っている。発起人代表の竹内将人は膳所の郷土史家、小生は若いときにあって話したことがある。撰文も竹内だろう。黒御影石で篆額は「黒田麹廬顕彰記念碑」とあり、碑文は以下の通り、さすがに昭和も末なので漢文ではなく、新字・新仮名遣いだが、送り仮名はカタカナだし、伝としては生没年などを欠くのが異例だけれどかえって麹廬への敬愛の気持ちが感じられてよい。
杉浦重剛ヲ教育シテ大成サセタ膳所藩ノ大学者黒田麹廬先生ハ弱冠緒方洪庵ノ適塾ニ学ビ若クシテ幕命ニヨリ江戸ノ蕃書調所(東京大学ノ前身)ノ教授トナリ将来ヲ嘱望サレテイタ 然ルニ幕末膳所城事件ニヨリ帰藩シ遵義堂ノ督学トナリ後チ師範頭(校長)トナラレタ 先生ハロビンソン漂流記ノ本邦初訳者デアリ ソノ「漂荒紀事」ハ新島襄ヲ始メ青年達ニ多大ノ夢ヲ与エタ マタ先生ハ膳所 大津ニ鉛筆 ペン インク 葡萄酒 写真機 時計ナドノ西洋文物ヲ最初ニ紹介シタ人デアル 先生ハ語学ノ天才デ蘭 英 独 仏 梵語ニマデ通ジ 其著書訳書ハ百種ヲ超エ 福沢諭吉ノ「西洋事情」ニ訂正増補ヲ加エ「天下ニ恐ルベキハタダ黒田アルノミ」ト云ワシメタ 帰藩スルコトナク其儘江戸ニオラレタラ必ズヤ大学者トシテ中央ニ名ヲ挙ゲラレタデアロウト痛惜ノ念ニ耐エナイ 先生ノ生誕百六十年ニ当リ有志相謀リ 祭典ヲ催シコノ隠レタ郷土ノ偉人ノ遺徳ヲ偲ビ茲ニソノ顕彰碑ヲ建テ永ク記念スル
昭和六十二年十二月吉日 有志一同建立
天才は時代と地域に関係なく現れるので、そもそも郷土の専有物にはならないけれど、その時代と地域に束縛されるということは確かだな。ちなみに麹廬の墓は膳所を見下ろす岡山の墓地に現存。同地には麹廬が帰藩の原因となった「膳所城事件」の関係者「膳所藩烈士」(尊皇攘夷派)の墓もある。
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