昨日は聴講に行っている大学の今年度最初の授業だった。
ところが教室に着くと、黒板に「○○先生休講」の文字が‥‥。
仕方なく、学内の博物館で妙心寺歴代の高僧方の手になる書画を拝見した。
妙心寺では二代住持の授翁宗弼の650年遠忌ということもあって、
それに関するものや、江戸期臨済宗中興の祖とされる白隠に関するものが
ずらりと展示されていて見応えがあった。もちろん無料どなたでも拝見できる。
授翁は私の住む滋賀県とも関わりがあるとされ、なんども訪れたことのある
三雲の妙感寺のことも紹介されていて懐かしかった。
その授翁の手になる「小水魚有樂」の軸があった。
これは複製だが、古色蒼然として威厳があった。
グーグルのAIに聞いてみると
「少水魚有楽(しょうすいのうおにたのしみあり)」は、臨済宗妙心寺派の二祖・無相大師(授翁宗弼)が遺したとされる禅語です。限られた時間(水)の中で生きる私たち(魚)は、たとえわずかでもその命の中に楽しみや希望を見出して生きるべきだ、という前向きなメッセージが込められています
と出た。
を見てみるとあたり前だが話はもっと深い。
もともとは 小水の魚に楽しみなどあろうか、いやない だから修行せよ 悟れ という話を「楽しみあり」と捉え直しているようだ。どちらが良い悪いという話ではないが、
元の話は出家者に対して、後のは在家の人々に対するもののようにも聞こえる
そうそう「置かれた場所で咲きなさい」というカトリックの教育者の話を思い出す。
在家の者ならそう言われて自覚的に生きていくのはそれでいい。
でも、もしも私が坊主になったらどう言われたいか、いやどういわれるべきか
それは前者ではないかと思う。 もちろんこれは現代人の受け止めであって、無相大師の本来の意図は私ごときはわからない。
さて、数日前は灌仏会(お釈迦様のお誕生)だった。その数日前はイースター(復活祭) 。
インドの4月が春なのかどうかは不勉強だが、イースターは季節にもとづく古い信仰が背景にあったのだろう。花が咲き、新芽が出れば新たな生命力を得るように感じるのは古今、洋の東西を問わない。それは信仰という以前の動物的な感覚だろうか。
で、生節が食べたい。このところ無性に。
カツオの生節ではなく、トンボ節。カツオはちょっと臭みが気になる。トンボ節はビンチョウマグロの白い身だ。加えてタケノコ、蕗、木の芽だ。目で、舌で、鼻で春を楽しむ。いいね。