2021/12/25

懺悔懺悔六根清浄 其の二

漢文学習3年目に入った今年は、演習に参加させて頂くなどして、白文を相手にすることが増えました。現代語訳された本を読むのは手っ取り早いようで、結局白文を苦心して読む努力をしないと身につかないということがわかったのが収穫。その過程で典拠などを調べることで、訳を考えてみるというのが大切なんですね。なんとも奥行きのあることです。

学校で学ぶテキストはコピーで提供されるのですが、自分でも手に入れて読んで見たくなり
まずは日本人にもなじみ深い四書を手始めに和刻本を古本市などで拾って読みました。
いずれも地方のそれなりのお家には必ずといってよいほど備わっていたもので、小生も現役の時には何度も手にしていましたが、ああこれね、という感じで読みもしませんでした。

四書なら現代語訳も多く有り、ちゃんと句読が入った活字本もいっぱいありますが、昔の人が寺子屋や私塾で先生を前にして、読まされていた雰囲気を味わいたくて、入手しました。
よく手擦れていて、役に立ったかどうかはさておき、読み継がれた本であります。
あとは中国や台湾で刊行された影印本などもとても安いので、まだまだ積んどくだけですが見つけたら買っています。今は顔氏家訓を読んでいますが、日に数行しか進めません。

あと「工具書」も増えました。文字や熟語を調べるには、中国のサイト「百度」が便利、典拠を調べるには「国学大師」とか、台湾の中央研究院の「漢籍電子文献資料庫」などのサイトが有りとっても助かっていますが、紙の辞書をめくるのはまた別の楽しさがありますネ。

さて、こんなお習いごとが、なんの役にに立つのかと問われると、ちゃんと答えられないのですが、還暦を超えるとやはり広い意味で「余命宣告」をされたも同じでありまして、そうなると新しいものに手を出しているよりは、評価の定まった古典を読んでおきたいと思うようになります。いささか大袈裟かも知れませんが「読まずに死ねるか」という気になります。所詮真似事、「日暮れてなお道遠し」ですが、今のところ毎日読むことが、楽しくて仕方がありません。


*集まってきた本たち(じつはほんの一部……)









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