2021/12/05

匍匐するも、未だ前進せず























陽が差したり時雨が来たり、定まらない一日でした。

さて、今日は王利器撰「顔氏家訓集解」という中国で出された標点本が来たので
これまで読んだところを確かめていました。
集解ということで膨大な注が付いています。
顔氏家訓にたいする撰者の注釈や先学の解釈。指摘事項なんかががズラーリとひいてある。
本文を数字読むことに、注番号が振られています。おおー、ものすごく詳しいぞ。

それと彼の国の古典はかならずなにがしかの典拠が背後に控えていますので
それを知らないと目の前の文章が理解出来ない、逆に言うと典拠が判れば
その文章の意味や筆者の意図がわかるという仕組みになっています。
(もちろんわかる人にはわかる……と言う意味でですが)
注にはこういう典拠ものっています。これはもう、はてしがない世界ですね……。

ちなみに下の写真の右上が清代に出された版本の影印本、
いわゆる白文というやつで、句読点なんて一切ついていません。
どこで切れるのか、お手上げになることも再々です。
顔氏家訓は漢文のセオリー通り、四字まとまりで切っていける所が多いので
これはちょっと助かります。
右下が句読点と注が一杯載っている現代の標点本。これは文の区切りがわかります。
左上は訓読確認のための本、左下は日本語訳の本、この2冊は日本のですね。
少なくともこれだけないと、読み進めることが出来ません。

もちろん最初から読み下しや日本語訳を見ると勉強にならないので、
最初は白文に赤鉛筆で点を打って読みながら文のまとまりをさがしていきます。
読めない時でも行間2行取りで注がはいっているので、
これを見ることで文意を推しはかり、読むことが出来ることもあります。
でもこうした古い版本には間違いも少なくないようでして、さらに標点本を見て確認。
その豊富な注を見て匍匐前進にかかります。

ただ注そのものもが読めないことも当たり前のようにあり……、
まったくお手上げになることも多々あります。
そういうときには、ちょっとずるをして日本語訳を読んでみるわけですが、
あまりに見事な訳だとかえって原文に即した理解ができないこともありますな(泣)。

いつもこんなことを書いていますが、本当に勉強されている方からみれば
馬鹿なような話です。あくまで爺の楽しみでやっていることなので
そこんところは、お許しくださいネ。






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